「ひたすら愚直に小さい主語を集めて、それを報告するってことを淡々とやる」(堀)

堀さんは報道の現場で日々、言葉で本質を伝えるという作業をされていますが、何か意識していることはありますか。

堀「僕は普段から〝大きい主語よりも小さな主語を使いませんか〟と言ってるんですが、これは僕自身が苦い思いをした経験からです。僕は東日本大震災、原発事故について一生懸命取材して、被災者・被災地の現場に寄り添って発信しているつもりだったんですけど、震災から3年くらい経った時に〝被災地では多くの人たちが苦しんでいます。忘れないでください〟と発信した時に〝堀さん、ありがとう。そう、私たちまだ復興住宅にも入れない状況だから〟と言ってもらった一方で、〝いや、堀さん。いつまでも被災地は苦しい、しんどい、大変なんだ、ということばかりメディアで言うから、そういう言葉が風評被害を生むんですよ。我々がこの3年の間どれだけ日常を取り戻すのに苦労してきたか……〟と言われたんです。そんなつもりじゃなかったのに……っていう思いはあったんですが、その時〝被災地は〟という主語が大きいんだと気づきました。〝『被災地は』苦しい〟じゃなくて、じゃあ〝福島は〟、いやいや福島の中にもいろいろある。と考えた時に、一番小さい主語〝『福島県富岡町、JR富岡駅前で理容店を営んできた深谷敬子さんは』震災から数年が経った今も生業(なりわい)を取り戻せないでいるんです〟と、ここまで小さい主語に落とし込んで話ができた時に初めて〝ああ、そうなんだ〟と伝わる。大きい主語は便利だからすぐに使っちゃうし実際に跋扈(ばっこ)しているなと思ってからは、取材者としてはひたすら愚直に小さい主語を集めていって、それを報告するってことを淡々とやろうと思うようになりました。使うと気持ちがいいんですよね、〝日本は〟〝社会は〟〝政治は〟っていう大きな主語は」

なるほど、小さい主語ですね。

堀「マスメディアで発信するとどうしても時間も限られるし、この日を逃してしまったら次はいつ報道できるかわからない。そうした窮屈さや焦りが実は主語をどんどん大きくしてしまっているし、見ている人達も〝そんな各論を言われても〟という感じになるので、大きい主語を使う共犯関係みたいなものができてしまう。それがマスコミ報道のエラーだったんだなということに、独立してから気付かされました。
テレビ報道ではどうしても大きい主語のぶつかり合いになってしまっていたし、大きい主語で投げかけないと伝わらないんじゃないかという切迫感、強迫観みたいなのがあった。だから僕は宮沢賢治さんみたいに〝デクノボー〟と言われようともオロオロとしながらもただひたすらに〝とは言っても、現場のこの人のケースはこうです。それも確かにわかります。でも違うケースもあります〟ということを、うろたえながらやっていこうと思いました」

近田さん、今のお話をどう思いましたか。

近田「確かにそうだなと思います。逆にいうと〝大きな主語〟を一つの手段として便利に使っている人たちもいますよね。大きな主語はもっともらしく聞こえるから。でも、後で考えてみると実際何のことを言っていたのか意味がわからなかったりする。特に今の政治家の人たちはそれを〝技術〟として昔よりレベルを上げていますよね。聞いている人は、全体は何となくわかるんだけど、どう反論したらいいかわからない。そういう話し方を最初からしているんですよね。
そういう政治家の言葉を伝える報道の現場は、おそらく幾分仕方なくてやっていると思うんだけど、そのことと、それを便利な話法として意図的に使っている人がいることは、受け手側としては見分けないといけないなと思いますね」

堀「おっしゃる通りですね。僕は大学生の時にプロパガンダを研究テーマにしていたんですけど、プロパガンダの手法の王道は〝大きい主語で人々をその『ファクト』より『イメージ』の方にいざなって、熱狂的に惹きつけていく〟というものでした。〝我々は〟が必ず主語になるし、〝国民は〟〝ドイツは〟〝大日本帝国は〟と大きな主語で括っていく。でもそれってイメージ、固定観念の世界なんですよね。それをすごく巧みに使っていると思います。SNSなども登場して、大きな装置を個人が手に入れたことによって、大きい主語が拡散しやすくなっていると思います。昔はメディアを手中に収めるのはなかなか大変だったと思うんですけど、今は自分たちで発信できる」

近田「そういう時代になってしまったからこそ、対抗するために取材をする人たちが切り込む技術をもう少し上げていかないといけないと思います。記者会見などを見ていると、記者は1問ずつしか質問できないのに、最初の1問をもったいない使い方をしてしまっている人が多い気がするんですよ。テニスと同じでサーブ権がある方が有利なんですが、サーブ権が政治家のほうにあるから、逆転する話術でサーブ権を取るような問い方が必要。僕は〝何を質問するか〟より〝いかに質問をするか〟という部分で、まだまだ相手に切り込めるところがあるんじゃないかなと思っているんです」

堀「そうですね。その応酬を打破するための質問としては、僕は政治サイドが使ってくる非常に大きな主語に対して、やはりものすごく小さい主語の、各論の、具体的な政策を求めるような内容をぶつけていくことが大切だと思っています」

政治における質疑の重要さで言えば、記者だけでなく野党の役割も大切ですが、報道を見ているとよく見出しで「野党は反発した」と書かれていて、ただ文句を言っているだけという印象になります。実際に国会中継を見ていると、ちゃんと指摘や異議申し立てをしているのだけど、この見出しの一言で随分と印象が変わってしまうように思います。

近田「見出しで煽(あお)るようなことを書いていても実際に読んでみると内容は違ったりして、羊頭狗肉(ようとうくにく)がけっこう多いですよね。昔のスポーツ新聞とあまり変わっていない。記事を読んでほしい気持ちはわかるんだけども、煽らなくても地味なタイトルでもちゃんと読むから、報道に携わる人たちはもうちょっと意識を変えてほしい。逆に、〝なんか話が違うじゃない〟という気持ちを持つと、報道全体が大袈裟(おおげさ)に言ってるように思えちゃうんですよね。例えば、新聞社には各社カラーがあるけども、ある新聞社の記事を読んでる限りは自民党の人は全員悪者に見えて、一方で別の新聞社の記事を読んでいると、今度はリベラル系の人たちが全員悪者に見える。そうすると右も左も政治家は全員悪いっていう気がしてくる。その悪い人たちが自分たちの私利私欲のために何をやってるんだっていう色眼鏡でものを見る癖がついちゃうんですよね。そこのところ、僕はすごくもったいないなって思います」

堀「それは同意しますね。だから僕は日常の会話の中でも番組のような場でも、大きい主語が出てきた時にはいつも〝ちょっと紐(ひも)解いてみようかな〟という気持ちになります。誰かが〝政府が今やってることはおかしいよ〟と言った時、その意見は認めつつ〝政府っていうのは誰のこと言っているんですか? 官房長官ですか、総理大臣ですか、それとも閣僚ですか、内閣府の官僚ですか?〟と聞いてみる。〝この間の官房長官の発言だよ〟〝官房長官ですね。官房長官は何と言っていましたか?〟と、こんなふうに大きい主語から小さい主語に落とし込んでいきます。すると〝そこに注目してたのか〟とか〝確かにそれはそうだな〟とか〝他の人はどうなんだろう〟という話に進展していきます。
主語を追求する手間暇は絶対に疎(おろそ)かにしてはいけないんじゃないかなって思います。じゃないとなんにもわからず問題解決もしないまま、憤りと不安だけが残って次の話題に移っていってしまう。そういうことはもう繰り返してはいけないんじゃないかなと」

近田「〝人の噂も七十五日〟というぐらいだから、どんなこともいつの間にか曖昧になっていくことが前提になっちゃっていますよね」

堀「本当に。原発の問題だってあれだけみんなで声を上げたはずなのに、今後ろを振り返った時にどれだけの人が一緒になって考えているかを考えると寂しい気持ちにもなります。でもそれはメディアの責任も大きい。忘れやすいし、次のイシューに飛び移りやすいところもあるし、本当に向き合ってやり続けようっていうのは特に映像の報道の中では苦手な部分でもあるので。やはり淡々と歯を食いしばってやり続けたいという思いはあります。自分だけじゃできないので市民メディアでやろうと思ってたんですね」

堀潤

「SNSの時代になって、発信していく人たちが一番問われるのは文章力」(近田)

堀「僕はこの対談で、言葉について全然バックグラウンドの違う人が集まってしゃべるのってすごくいいなって思いました。それで思い出したのですが、以前パレスチナのガザに行ったときのことです。天井のない監獄と言われていて中に入る人たちは自分たちで外に出られません。イスラエル側が圧倒的な軍事力を持って、制圧している地域ですけど、そのガザの中で取材してる時に僕が〝早く平和になるといいですね〟ってポロッと言ったら、パレスチナ人のドライバーの方が〝それは誰にとっての平和の話をしていますか〟っておっしゃったんですよね。おそらくイスラエルの人もパレスチナの人もそれぞれ平和を求めているから戦争は続いてる。なるほどと思って日本に帰ってきてから、いろんな人に〝あなたにとっての平和って何ですか〟と聞いてみると、50人いれば50通りでした。〝静かにいること〟〝自由でいること〟とかいろいろ出てくるんですよね。でも、静かでいることを平和と言う人と、活発に自由に行動できることが平和だと思っている人は、お互いに〝平和がいい〟と言っていても、いざ〝一緒に遊ぼうぜ!〟ってなった時〝いや、静かにしてくれよ〟とか、逆に〝なんで活発に自由を謳歌(おうか)しないんだ〟ということになってしまう。〝平和〟というたった一つの言葉でも一回突き合わせてみないとわからない。〝俺の『平和』はこれなんだけど、みんなの『平和』もこれで合ってるんだっけ?〟〝いや、違う違う〟と突き合わせた時に、じゃあどうしようかという話にもなる。そのバリエーションが多ければ多いほどいいし、こんな雑多なものは自然発生的じゃないと突き合わせられない」

近田「僕は、SNSがこれだけ普及してから、本当にみんな違う考え方をもっているんだっていうことを毎日リアルに感じるようになったんですよね。昔は実感できなかったですよね。この文明の発達は、その部分は良かったと思うんですよ。だからそこからもう一歩進んで、議論していく時に大切になるのは、相手に対してどういう言葉でいかに自分の意見を説得力あるものにするのかということだと思うのだけど、どうしても自分の言葉がうまく相手に伝わらないとすぐみんなキレちゃうんだよね。ここがSNS時代の一つの危険な部分ではあると思うんです」

堀「それは思います。だから、SNS時代の前に戻りはしないんだけど提案を設定することはできるかなと思っていて。まず〝効率化をやめよう〟とか〝決めるのをやめよう〟とか、そういうことを打ち出していく必要があるように思います。例えば〝平和〟と言った時にいろいろな平和観が出てくると〝じゃあどれか一つに決めよう〟って言ってしまいそうになるんですけど、そのままでいい。というのは、ヒトラーがドイツをああいう形で束ねていった時に、一番のキーワードが〝大衆の国民化〟だったんですよ。大衆社会っていうのは100人いれば100通りで、みんなそれぞれの生活があってそれぞれの志向があって、それぞれの目的があって、浮遊している状態です。でもそれではドイツが強くならないから〝我々は一つの崇高な目的を持った『国民』にならねばならない〟ということをドイツ最高のキーワードとして打ち出した訳です。今の日本の社会を見るとけっこう〝国民化〟しているという危機感があります。何か成し遂げなきゃいけないとか、これを一丸となってやらなきゃいけないとか。
それを今度は逆にバラしていく、つまり〝『国民の大衆化』をしよう〟ということを言っていきたい。僕は、世界協調といったものはその先にあると思うんですよ。あまりにも国民化が進んだ国家同士が今それぞれのナワバリ争いをまた始めていて、ナショナリズムが台頭して、そこに火をつけて自分の権力の足場を固めていくようなことを強大なパワーをもった国々が次々とやり始めている」

近田「国家っていうものがある程度一つになった方が物事が早く決まりますからね。みんながいろんな意見をずっと述べていると、物事がなかなか決まりにくくなっちゃうじゃないですか。その中でどうやってそのみんなの総意というか、着地点というものに対して、自然に着地していくものとしてもうちょっとゆとりを持って眺められるだけの余裕が国にあるかどうかってことですよね。そこは厳しいですよね」

厳しいように思いますし、むしろSNSが普及して、いろいろな考え方があることが見えるようになった一方で、分断というか議論の難しさが進んだ感じすらします。

近田「SNSの時代になって、発信していく人たちが一番問われるのは文章力ですよね。影響力のある人たちが、例えばディベートみたいなのが発生した時、ある一つのことについて意見を言うと、相手は〝いやそれは違うよ〟っていう意見でも、そこでは議論が行われなくて〝それを言っているてめえが気に食わないんだよ〟って、どうしても感情のぶつけ合いに向かってしまう。これはたぶん、日本語の構造の中に原因がありますよね。日本語の一人称はいろいろあって、それを〝俺〟にするのか、あるいは二人称を〝てめえ〟とか〝お前〟と言うのか、あるいは語尾をちょっと変えるだけで、同じ内容でも特に日本語は印象が大きく変わる。それは日本語の面白さでもあると思うのですが、口喧嘩(げんか)するにはいいんだけども議論するには向いてないっていう。SNSなどで影響力がある人たちは、発信する上ではもうちょっとその自覚を持っていかないと、それを読んだ人たちも影響を受けてどんどん連鎖していってしまう。相手を罵倒する言葉っていくらでもあるから、SNSが言い合いの場にますますなってしまう。その事に対して、やはりきちんとした文章でそういうことじゃないんだよって示していかないと。日本語というものがどんどん劣化しているのは、〝させてる〟責任があると思うんですよ」

日本語には感情論に向かいやすい言語上の特性があるというのはわかります。一方で、何気なく言った一言で言葉狩りに遭い、炎上しているケースをよく見かけます。そういうのを見るにつけて言葉に対して臆病になってしまっている人も多いんじゃないかと思うんです。なんか言われたら面倒だから、本心はかくして無難なことしか言わないメディア人もたくさんいますし。堀さんは電波で発言するときの言葉選びで、さっきの日本語の特性を踏まえて何か意識していることはありますか?

堀「あります。だからこそ表現が必要なんだろうなって思っています。言葉は先ほど言ったように、一回腰を据えて確認し合ってみないとどうしてもすれ違う。向き合う余力がなければすれ違ったまま衝突だけして終わっちゃう。だからこそそういうものを包摂してくれるものが〝多彩な表現〟なんだろうなって思うんですよ。僕は映像の分野なので、言葉がなくてもその映像のシーンを見てもらうことでいろんなことを、例えば〝平和観〟ってこういうのもあるのかなっていうふうに実感してもらう、そういうものを作りたいと思っています。詩や音楽、ダンス、もういろんな表現があって、最近だとコンピューターサイエンスの世界も表現だなって思います。ナチのプロパガンダは映画も音楽もポスターも総動員したけれども、使う人たちの意図によってそれは豹変(ひょうへん)してしまう。だからこそ今、バラバラになって表現の使い方とかいうことを考えていきたいんです」

近田春夫

「表現を何のために深めたり広げたりしなきゃいけないのかなと考えると、人間の幸せのためだと思うんですよ」(近田)

なるほど。「表現」が必要ということですが、音楽だけではなく文章でも表現活動を行っている近田さんはどう思われますか?

近田「表現が大切だなということはずっと思っているんですよ。表現っていうのは結局何のために深めたり広げたりしなきゃいけないのかなと考えると、最終的には、ものすごくベタだけどやっぱり人間の幸せのためだと思うんですよ。ただその幸せっていうのは、堀さんの話にもあったように〝自由〟にしても〝幸せ〟にしても人それぞれの持ってるその概念って違うわけで。で、表現っていうのはいろんなことをもっと柔軟にいろんな角度から眺めることができるんだっていうヒントになる。考え方とか生き方っていうものに対して〝このようにしてものを捉える〟というのは何か他のことにも応用が利くわけです。SNSの話も出ましたけど、そういうことを今の時代は人に知らせやすい時代ですよね。だから〝表現〟ってものが持ってる意味が昔よりはるかに多様になったと思います。昔は芸術とか表現とかっていうと、音楽とかを指していたりしたんだけど、今の時代はそれこそ全然アートじゃなくても表現だし、表現をするための道具はスマートフォン一個でもいろんなことができる時代ですから。そういう意味では、今の時代はいろんな厄介なこともあるけど、まんざら捨てたもんじゃない時代だってことも我々は言ってく必要あるなっていつも思います」

堀「そうですよね、権力者が最初に何やるかっていうと表現規制ですよね。表現のある社会は権力者にとって手強いでしょうね。だから、大きな権威的な政治に対しての対抗措置はやっぱり多彩な表現であり続けること。手こずらせたいですよね、そんなに一筋縄にはいきませんよって。そういうありようをどんどんメディアも表現していかないと。香港でも、ミャンマーでも発信のバリエーションがかなり縛られちゃってますよね。それこそロシアでも。だからこそ各所で好きな表現をやっていき、その互いの表現を潰し合わないことが重要だと思っています」

近田「表現って一概に言うけれども、その一番真ん中にあるものはやっぱり〝言葉〟だろうと僕は思うんです。話が戻りますけども、こういう日本語表現はやめたほうがいいよな、と思うものが僕はあると思っていて、具体的にいうと〝慇懃無礼(いんぎんぶれい)な表現〟はやめるべきだと思うんですよ。慇懃無礼っていうのは、表面的にはものすごく丁寧に言ってるけど実は感じ悪いじゃないですか」

堀「馬鹿にしたり、どうせわかりやしないだろうとみくびっていたりとかですね」

近田「そう。慇懃無礼に話してると言質をとられにくいから。表面的にはものすごい敬語を使うじゃない。それを今の政治の人はよく使っていて、わりと慇懃無礼に言葉を運ぶ人が多いんだけど、あれがどこから始まったのかずっと考えてたんですよ。あれは、橋本龍太郎ですよね。〝御議論いただく〟ってあの人からですよね。一旦世の中を慇懃無礼にしちゃったから、それをどうやったら取り払えるだろうって考えた時、一つは〝もう慇懃無礼はやめよう〟っていう運動をしてもいいんじゃないかなって思っているんです」

堀「脱・慇懃無礼ということで、自分でできることは何かなって思った時に、〝私は〟っていう主語をちゃんと置くことを心がけようと思ったんですよ。先ほどの話にあった日本語の特徴の一つで、一人称の主語をおかなくても会話が成立するっていうのがあります。〝今こうだよね〟〝こうに決まってるじゃん〟といった会話では〝『私が』そう思ってる〟と言うべきことなのに、〝『みんな』こう思ってる〟と伝わってしまう。〝社会ってこうだよね〟っていうような、極めて責任の所在が曖昧に成り立ってしまっている。
いろんな意見を言ってもいいんだけど、〝私は〟という主語を一回一回ちゃんとつけてみることによって、レスポンシビリティっていうのが生まれていくのかなと。レスポンシビリティって英語で〝責任〟っていう意味ですが、紐解いてみると〝応答する(レスポンス)力(アビリティ)〟なんです。〝私は〟と言ったら、言われた側は〝俺は〟と違う意見を言うとか、そういう会話が始まるわけですが、主語をおかないと〝まあそうだよね〟という曖昧な同調か得体の知れない反発の元凶になると思っています。違いを楽しめないというか」

それで言えば記者の方たちも会見で「国民に誤解を与えている」っていうぼんやりした言い方を政治家にしますよね。だから政治家が何と答えるかというと「丁寧に説明して参ります」って何の答えにもなっていない回答をする。これが延々と繰り返されています。「私はここのところがわからないので、ここをもう少し具体的に教えてください」っていえば良いのに、「国民に誤解が生じているので教えてください」っていうから、「国民には丁寧に説明して参ります」って……。

近田「記者たちっていうのは質問にルールがあるんですか?」

堀「空気ですね」

近田「その空気っていうのは、一番メディアにあっちゃならないものですよね」

堀「もう僕は大嫌いだったんです、記者会見に行くのが。〝言葉の劣化〟っていうこと以上に、やっぱり事勿(なか)れでお互い持ちつ持たれつな、そういう慣習が透けて見えちゃいますよね。それが返って信用を落とすし、そうじゃないアプローチにしたほうがいいんだけど、やっぱり気づかない」

でも、官邸の記者会見とかも、例えば江川紹子さんや望月衣塑子さんが手を挙げ続けて、「まだ質問があります」って言ったその一言から少し状況が変わっていった事実もあります。なので空気からはみ出して言葉を発していくことが、時代を変えていく一つの契機になると思うんです。

近田「一言が変えることっていっぱいありますよね。僕は、一言運動みたいのをやっているんですよ。コンビニで買い物するときも店員さんになんか一言かけるんですね。そうすると向こうも何か言ってきてくれるの。〝今日もまたビールですか?〟とか(笑)。家のマンションのエレベーターでも、誰かと一緒の時は必ず挨拶するし、何か言葉をかけるんです。〝今日は寒いね〟とか。で、今はマンションの人たち、会うとみんな挨拶をしたり会話をするようになったんですよ。そういうことってすごく大事だよね」

堀「そう思います」

近田「しかもその時に笑顔とユーモアが大事なの。堀さん、今日初対面だけど、笑顔が素敵だし、お話もユーモラスだもんね。そういうことだと思いますよ」

堀潤

1977年、兵庫県生まれ。NPO法人8bitNews代表理事/株式会社GARDEN代表。
立教大学文学部ドイツ文学科卒業後、2001年NHK入局。「ニュースウオッチ9」リポーター、「Bizスポ」キャスター等、報道番組を担当。2012年、市民ニュースサイト「8bitNews」を立ち上げ、2013年4月1日付でNHKを退局。現在は、国内外の取材や執筆など多岐に渡り活動中。「Forbes JAPAN」オフィシャルコラムニスト。2019年から、早稲田大学グローバル科学知融合研究所招聘研究員に就任し、SDGsフロンティアラボで官民の枠を超えたイベントや情報発信をしている。2020年、自身で監督、出演、制作を行った映画「わたしは分断を許さない」を公開。

近田春夫

1951年、東京都生まれ。慶應義塾大学在学中からプロミュージシャンとして活躍。
1972年に自らのバンド、近田春夫&ハルヲフォンを結成。1978年には歌謡曲をパンキッシュなアレンジでカバーしたアルバム「電撃的東京」をリリースして話題を集める。1986年にヒップホップレーベル「BPM」を立ち上げ、“プレジデントBPM”名義でラッパーとしての活動をスタート。1987年には人力ヒップホップバンド・ビブラストーンを結成し、以降精力的なライブ活動を展開した。またミュージシャン以外に執筆活動やテレビ出演など、多岐にわたる活動を行っている。2021年には音楽活動50周年、古希を迎えた。