「たまたま彼が言わざるを得ない空気に促されてしまった可能性はある」(宮台真司)

小山田さんが90年代の鬼畜系マウンティングのプレッシャーから学生時代のイジメについてあのようなかたちで発言をしてしまったとなると、小山田さん個人の資質の問題というより、あくまでも時代の空気、つまり誰かが小山田さんになっていた可能性があるということですか?

宮台真司(以下宮台)「確定的なことは言えませんが、その可能性はあります。たまたま小山田圭吾氏が『クイック・ジャパン』に呼ばれ、そういう発言をせざるを得ない空気に促されてしまって、さもなければ人に語らないことを──もしかしたら本人もひそかに反省していることを──さも自慢げに〝全然反省してねーぜ〟みたいにプレゼンしてしまった可能性ですね」

小山田さんですら、時代の犠牲者と取れなくもないんですが。

宮台「そこまで言うのは言い過ぎだと思います。時代を背景にした場の雰囲気に抵抗できる人間だっていくらでもいるからです。その時代についてですが、ある時期にクリアカットに次の時代に移るわけではない。90年代に入って〈鬼畜系〉の動きが顕在化しても、80年代的な〈微熱系〉も一部には健在でした。クラブを例にとります。
僕はなぜ94年にNHKでETV特集『シブヤ 音楽 世紀末』という番組の製作に関わったかというと、お祭り騒ぎ的な熱感とは全く違う〝まったり〟としたいい感じの微熱を描きたかったからです。ホット・フィーバーではない、クール・ブリーズ的なフィーバー感をみんなにわかってほしかった。そこにあったのは、ハレ※1の場というよりも、まったりとした時空で、本当の自分あるいは本当の仲間関係に戻る営みでした。
この20年間のクラブは、おしゃれマウンティング的、あるいは音楽マニアック的な時空なので、当時の空気感は今の大学生世代にはわからないはずです。僕の言い方だと、90年代前半のクラブは〝友達を作るのがヘタな予備校生が一人で行ける場所〟でした。おしゃれしなくていい。うまく踊れなくていい。見栄を張らなくていい。当時はまだ70年代末以来のディスコもあったけれど、それとは違ったんです。ディスコは、おしゃれするでしょ?見栄張るでしょ?だからナンパの場所です。90年代前半当時とクラブでは、ナンパは、禁止というわけじゃないけど、相当ウザがられました」

ダースレイダー(以下ダース)「今、宮台さんが言ったクラブのまったり感を象徴するヒット曲が、僕は『今夜はブギー・バック』だと思っていて、これを作り、歌ったのがフリッパーズ・ギターのもう一人である小沢健二です。『今夜はブギー・バック』のゆったりしたリズムと、あのラップ、要は着飾らない、ギラギラしていない、ふわっとしている感じの温度感の〝ダンスフロア〟が、宮台さんの言うクラブのイメージです。その絶妙なクラブ感は、実は鬼畜系のプレッシャーから逃れる場所でもあったんだと思います。かたや小沢健二的な在り方がそちらへ行ったのに対し、小山田さんが鬼畜系なマウンティングという方向に進んでしまったのかもしれないっていうのは、すごく皮肉だなと思いますね」

その小山田さんと小沢さんの分水嶺は何だったんでしょうか?

ダース「そこはちゃんと分析しないといけないと思いますけど、お互いの作品などで参加しているミュージシャンとか、人脈的なところもかなり近いので、条件は実はそんなに違わなかったと思います。そこがさっきの〝誰でも小山田圭吾になり得たのか〟ということで言えば、今回問題になった彼の行動自体は学生時代の話で、それをどう発表したかっていう話でもあるので。中高でそういうことをしていないヤツはいくらでもいる。むしろ、僕は自分が中高生だった時の感覚でも、〝そりゃねぇよ〟って思うような内容だと思う。だから、インタビューを受けた時期の時代的な背景は宮台さんが説明してくれた通りだったとしても、それにどう反応するかはそれぞれの資質だと思います。ちゃんとまったりしたクラブへ行った人もいますし。そこが、小山田圭吾という人間が引き受けなければいけない部分だと思いますね。ちなみにインタビュー記事自体の大きな問題点は小山田さんの発言を『ロッキング・オン・ジャパン』がノーチェックで掲載したこと、そして『クイック・ジャパン』の編集とライターの記事の仕上げ方にあり、あの記事の作り方のほうにこそ宮台さんが説明してくれた時代背景や考え方が反映しているとも思います」

※1ハレ……「ハレ(晴れ、霽れ)」は儀礼や祭、年中行事などの非日常を表し、対して「ケ(褻)」は、普段の生活である日常を表す。

 

2021.7.21『深掘TV ver.2』「小山田圭吾問題を徹底深掘り!!」より。配信はZoomを使ったリモートで3時間ほど行われた。

「なぜだったのか、どういう心の動きがあったのかっていうことしか大事じゃない」(ダースレイダー)

では、小山田さんは今後どうしたらいいのか。

宮台「そんなに選択肢はないです。まず、ミュージシャンなのだから、作品で勝負し続けることです。次に、編集者との人間関係があったにせよ、なぜインタビューでああいうことを平気でしゃべったのか、そもそもなぜイジメをしたのか、自己分析の結果を表現していくことが必要です。謝るなんて口だけですから、誰にでもできます。謝って済むわけではない。そこは国際標準に合わせて、なぜそれをしたのか、だから今何をしているのか、語り続ける。
わかりやすい例です。日本人はすぐに謝罪しますが、ドイツ人は謝罪しません。日本人は〝ごめんなさい〟と言うけれど、何が悪かったのかを考えないクルクルパーなんですよ。ドイツ人はほとんど謝らないけれど、代わりに、どこで間違ったのかを分析し、表明するんですね。全然違うでしょう?周りがどれだけ信用してくれるようになるかが違うんです。日本はすぐに謝るから信用されないんですね。だから〝謝れ!謝れ!〟などとワメき立てるヤツは、即死すべきです」

ダース「以前、ドイツ元大統領ヴァイツゼッカー※2のスピーチを宮台さんに教えてもらったんですが、つまり〝罪は謝罪によって過去を手打ちにすること。ドイツ人は謝罪で手打ちにするのではなく、永久に責任を背負い続ける〟というようなことを言っています。責任っていうのは行動に基づいている。あとは、言葉をどう考えるか、謝罪は言葉なので、問題はその中身だということに尽きるんですよね。例えば〝Twitterに謝罪文が載りました〟っていっても、誰が書いたかもわからないし、どういうテンションで言っているかもわからない。そんなものには一片の価値もないですよね。もし価値があるとしたら、公式な場に公式な声明を載せたという行為でしかないわけで。そこはスタート地点でしかないですし。中身をどう表すかっていうのは口でいくら説明しても無駄で、生き方や在り方で見せるしかなくて、小山田さんはそれをやるしかないんです。小山田さんはクリエイターなので出来るアウトプットを持っている人でもあります。なぜだったのか、どういう心の動きがあったのかっていうことしか大事じゃないっていうのは、今回のことで気付きましたよね。言葉だったり、言った/言わないを大事にする人ほど、言葉がそもそもどういう機能を持っているかを考えてなかったりするのが、すごく滑稽(こっけい)ですよね」

宮台「日本人が〝謝れ!謝れ!〟って言うのはすごく滑稽ですよね。誠実そうに謝るなんてことは、周囲に〝そうしたほうが得ですよ〟と言われれば、誰でもできる。他方、本当に必要とされているのは、〝なぜそれをしたのか〟〝どこで間違ったのか〟という自己分析と、ダースさんが紹介してくれたような意味で、自己分析の結果として示せる行動です。それだけを問うのが国際標準です。
外国人に尋ねられて僕が答えるのは、日本は〝忘却の文化〟だということ。例えば天皇制の改元。代替わりによる空気の一変によってミソギします。改元時の恩赦が象徴することです。僕の言い方では、天皇制とは〝忘却と融和の装置〟です。同じことで、多くの人は反省の内容を具体的に示す代わりに、謝罪で済ませます。この場合の謝罪は、以降は過去を蒸し返さないという手打ちです。
だから、改元しようが、謝罪しようが、同じ過ちを永久に繰り返します。例えば今回の日本だけが負け続けているコロナ禍も、戦前・戦中のガバナンスのでたらめさの再現です。もちろん、十年前の原発の爆発以降、日本だけが原発スロットルを踏み続け、再生可能エネルギーの巨大な市場から完全に取り残されたのも、同じでたらめさの再現です。国会でも〝総理は謝罪されないんですか?〟という野党のセリフが定番です。そうじゃなく〝どこに誤りがあったとお考えですか?〟でしょう。
ヴァイツゼッカー元大統領の考えでは、第一に、謝罪したところで大きな悪について周囲は永久に忘れない。第二に、周囲が忘れてくれないことがむしろ福音だ。なぜなら、忘れてくれない周囲に対し〝今は過ちをこう自己分析し、今こんな行動をしている〟と永久に言い続けられるからです。それによってドイツは信頼を回復し、回復どころかむしろ新たに醸成する。今お話ししたことは、主体同士の関係性に関わるユニバーサルな話なので、国家と国家の間だけでなく、個人と個人の間についても当然成り立ちます。だから、小山田問題についても成り立ちます」

ですが、小山田さんが鬼畜系マウンティングの空気に押されてしまうぐらい弱いとすれば、メディアに出てきて自己分析をするのは難しいような気がします。だんまりを決めてしまう気がしますし、そういうだんまりの連鎖がこの国ではまた続くことが危惧されます。政府と一緒で「みんなが忘れるまで黙っていよう」という空気感が強くなっていってしまう。ドイツとは真逆の方向に行ってしまう気がしますが。

宮台「だからこそ、この番組を小山田氏の関係者、あるいは本人が観る可能性があると考えて、僕はここでしゃべっています。そこがポイントです。彼は人前しゃべる機会がある。表現できる機会がある。だから、とにかく自己分析した結果を絶えず表現するべきです。それは、公共的な意味でも、彼自身の保身の意味でも、絶対にしたほうがいい。実は、それ以外の選択肢は一つもありません。
プラスやはり〝作品で勝負を続ける〟といっても作品で反省を直接示すという意味ではない。音楽体験は言外・法外・損得外のものです。ゼミならここで、同じく歌を唄っていたネアンデルタールとサピエンスのうち、サピエンスだけが分節されたボキャブラリの運用つまり言葉を獲得したことで、どんな可能性が得られ、代わりにどんな可能性を失ったのかを議論しますが、ここでは、受け手の音楽体験を通じて、敏感な者には通じる曰く言いがたい言外を、伝えられることだけがポイントです。
音楽表現ではなく音楽体験という言い方をするのは、あるいは敏感な者うんぬんという言い方をするのは、この勝負が実は受け手の問題でもあるからです。ピエール瀧がコカインで捕まった時、ソニーが電気グルーヴの配信販売を一挙に停止しました。海外のミュージシャンは散々ドラッグで捕まっているけど、一度も販売停止や配信停止にならない。日本人の悪についてだけ〝謝れ!〟とガナリ立てる炎上的世間に媚(こ)びて〝ごめんなさい、作品を出しません〟と構えるダラシナサがあるからです。
小山田氏が作ろうが誰が作ろうが、良い作品は良い作品です。フリッパーズ・ギターが出た時、僕ら年長者は〝はっぴぃえんどの再来だ〟と思いました。アメリカン・ポップスをちゃんと聴き込んでいて、古いものから新しいものまで本質を研究し尽くした上で曲を作る。はっぴぃえんど以降しばらくはフリッパーズ・ギターしかいなかったんです。楽曲の表現者としてはすごいヤツなんですよ」

ダース「僕もコーネリアスの90年代の作品やリミックス版をよく聴いていたので、そういうことですよね。実はどんな人間でもすごいものを作れてしまうところに、創造物の可能性と面白さと悲惨さと残酷さがあるし。ただ、薬物系の事案は、基本的に誰にも迷惑をかけていないですけど、今回の小山田さんの問題は、時効になっているとはいえ、ある種オリンピックという舞台に引っ張り出されたが故に、あの2誌の記事を見てしまい今改めて傷を負っている人もたくさんいて。そこに対してもある種の道義的な責任はあると思うので意味合いはやっぱり違うと思います。そして、先ほど言ったようにあの2誌を書いて、編集して発表した人たちにも大きな道義的責任と、小山田さんの現況への責任もあると思います」

※2ヴァイツゼッカー……リヒャルト・カール・フライヘア・フォン・ヴァイツゼッカー。1920年生まれ、西ベルリン市長(1981年〜1984年)を経て、1984年、西ドイツ第6代大統領就任。1989年に再選し、翌年10月、初代統一ドイツ大統領に就任する。1994年任期満了により退任。2015年1月、94歳で死去。1985年5月、第二次世界大戦終戦40年を記念する演説で「過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります」と述べたことで知られる。

 

ラッパーとしてだけではなく、論客としても活躍するダースレイダー氏。2021.06.26『深掘TV ver.2』トークライブ「表現の不自由」にて。 Photo by 俵和彦

「小山田圭吾は永久に責任をとり続けるという責務を負っている」(宮台)

仮に責任を果たした上でも、小山田さんは今後、例えばオリンピックじゃないにしても、公共の何かに音楽を提供することは辞退すべきだと思いますか?

宮台「先ほどダースさんが紹介してくれたヴァイツゼッカー元大統領のスピーチの意味を考えればわかります。謝罪は、過去を清算して手打ちするためのものです。大きな過ちについては、過去を清算してはいけない。だから〝謝ったんだから、蒸し返すなよ〟というのは頓馬です。周りは永久に蒸し返すべきです。そうした周囲にcallされて思わずresponseしてしまう。それがresponsibilityつまり責任です。その中動態的なresponseを見て、周囲はそいつが信頼に値するかどうか見極めるんです。
その意味で、ヴァイツゼッカーが語った〝罪よりも責任〟は、今日ではユニバーサルな摂理です。ドイツが謝罪して過去を清算してはいけないように、小山田圭吾氏も今後永久に責任を取り続ける責務を負うということです。それを果たす程度において、彼は資格を人倫的に回復できます。その程度において僕らも復帰させればいい。社会学者マックス・ウェーバーによればresponsibilityとは本来、神からのcallにresponseし続けられることによる信仰者の資格を意味します。小山田氏も資格を問われています」

ダース「僕はちょうど今日の午後に『ホロコーストの罪人』という映画を観ていたんですが、常に新しいナチスに関する映画って出続けるんですよ。これが出続けるたびに、ドイツはもっとも立派な国として、もっとも自然環境について、人権について考え続けなければいけない、という態度を求められてしまう。もしドイツが〝もう終わったことなんだから、ナチス映画なんか作るな〟〝その話はもう終わったんだ〟という態度をとっていたら……そういう態度を取っている国が極東に一つあるんですけども(笑)」

宮台「ウヨ豚天国が放置されている国のことだね(笑)」

ダース「ナチス映画は常に作り続けられ、常に蒸し返されるわけです。毎年新しい映画で、毎年指摘し続けられる。それを蒸し返される度に、国として、あるいはドイツ民族として、応えなければいけない。残念ながらドイツ民族の中にも、ネオナチ※3みたいなものが出てきていて、責任を放棄し始めているっていうことが、今メルケルがもつジレンマだったりするわけです。そのレベルの議論をドイツはやっているわけです。そういった考え方をそもそも日本社会はしてないっていうのが、この小山田問題に関しても議論のスタートに立てないところだなと思いますね」

「蒸し返し続ける、そしてそれに応え続ける」というのは、この国には全くない習慣ですよね。とにかく一度謝って手打ちにするのがベストだと信じている国ですので。

宮台「今後、大きな過ちについては、手打ちを許してはいけない。永久に蒸し返し続けるべきです。それによって、小山田氏は永久にresponseし続ける機会を獲得でき、その機会を利用することで、小山田氏は信用できる人間に戻れるんです。もしかすると信用を失う前よりも大きな信用を得られるかもしれない。ナチスを作り出したドイツが、EUの盟主となったようにです。それ以外の回復の方法はありません。日本の習慣やメンタリティがどうあれ、それ以外の回復の方法は一切ありません。そのことは、現在のドイツと日本の、政治的地位と経済的地位の巨大な落差を考えればわかります」

※3ネオナチ……新ナチズム。ナチスの思想・主義・支配体制、全体主義、偏狭な民族主義などを信奉する者や運動団体、またはそのイデオロギーを指す。東西ドイツ統一後に台頭し、現在は多くの国にそれらの組織がある。

 

専門的かつ独特の語り口でテーマを深掘りする宮台真司氏。2021.06.26『深掘TV ver.2』トークライブ「表現の不自由」にて。 Photo by 俵和彦

「自分の視界から消すのが問題の解決ではない」(ダース)

蒸し返していく側の問い方も大事だと思うんですが、いかがでしょうか?

宮台「先ほど僕は、なぜ90年代の鬼畜系ブームが起こったのか、それはどういう前提で、どういうふうに動機づけられたのか、そのプロバビリティ=蓋然(がいぜん)性について話しました。なので、単に〝小山田氏が鬼畜だったからだ〟という単純な話とは、少し違うことがわかってもらえたと思います。
今も、非人道的・反人倫的な感情の働きをベースにしたイジメが、たくさんあります。幾度も書いてきたように、イジメは単なるいやがらせとは違います。いやがらせは誰もが日常的にやっています。イジメは相手の尊厳を回復不可能なまでに壊すことです。小山田氏が告白したような〝糞を喰わせる〟営みは、いやがらせではなく、イジメです。いやがらせという意味ではイジメを永久に根絶できないけれど、尊厳の破壊という意味ではイジメをすぐにでも根絶しなければいけない。
だから〝小山田氏が悪い〟とか〝だから謝れ〟などとホザいている頓馬の言う通りにしたら、問題は特殊な話で終わって忘却されます。イジメは今まで山のように繰り返され、今もたくさんあって小中学生が自殺しています。イジメ自殺は、生きていくのに最低限必要な尊厳が破壊されるからです。実際、小山田氏がイジメた相手が自殺していた可能性もあります。今もそうした間接的な殺人が続いているんです。とすれば、問題は小山田氏だけの特殊な話ではない。だから、彼が関わっていたイジメがどんな時代的文脈や関係性メカニズムを前提にしていたか、明らかにすべきなのです。それが、悲惨なイジメ事件にcallされた僕らのresponsibilityでしょう。
という話をしていると、〝俺はそんなことしない〟と言う頓馬が湧いて出てきますが、〝お前はしないかもしれないけど、お前の子どもはするかもしれないし、お前の友達がするかもしれない。それを考えろ〟ということです。いずれにせよ、頓馬の水準に合わせて話をしていたら、始まりません」

ダース「僕にも子どもがいますが、〝子どもがイジメられるかもしれない〟って心配する親は多いと思う。けど同時に〝子どもがイジメるかもしれない〟という心配も、絶対にしなければいけいということです。そこはすごく大事だと思いますね」

なるほど。

ダース「〝悪いのはコイツだ〟で済む問題は一つもないんです。例えば番組から降ろせば解決なんていうことはなくて、ただ自分の視界から消えただけ。自分の視界から消すのが問題の解決ではないんです。問題の解決というのは、どういう原因でどういう考え方でこれが起こってしまったのかに向き合う以外にはないということです。今回、残念ながら早急に小山田さんを視界から消す動きが各所で見られたことは非常に非建設的で無責任な有様です」

宮台「そう。ヴァイツゼッカー元大統領の議会演説における〝罪と責任〟の問題、とりわけ〝永久に行動を通じて責任を取り続けること〟の大事さを、深くわかっていただく必要があります。同時に、問題は極大に普遍的なので、〝ふーん〟と感心するんじゃなく、我が振りを直してほしいんです。
今、みんなが小山田氏を排除し、小山田氏が見えなくなることで、せいせいすると思うんです。ですが、せいせいした瞬間、全てを忘れています。だから延々と〝炎上→謝罪→せいせい〟が繰り返されます。実に劣等です。むしろ小山田氏が随所に顔を出して、その度に思い出し、〝お前、今も責任取ってるんだろうな〟としつこく追求し続けるのが、大切です。そして、小山田氏がそれにしつこくしつこく応え続けることで、かつてない信頼を醸成すること。我々はそのことを期待するべきです」

『深掘 TV ver.2』レギュラー陣がゲストとともに、毎回ワンテーマを深掘りするトーク番組。ニコニコ生放送で毎月2回配信中。

前編はこちら
宮台真司

1959年、仙台市生まれ。東京都立大学教授。専門は社会学。映画批評家の顔も持つ。90年代、援助交際やオウム真理教事件に関する論考で注目を集め、以降さまざまなメディアを通じて、政治や社会に対する批評を続ける。『14歳からの社会学』(ちくま文庫)、『日本の難点』(幻冬舎新書)など著書多数。近著に『崩壊を加速させよ 「社会」が沈んで「世界」が浮上する』(blueprint)。

*プレイリスト
『Why Don’t You Eat Carrots』(1971) ファウスト
『Oh Yeah』 (1972) カン
『Full Cirle R.P.S(No.7)』(1981) ホルガー・シューカイ
『Velvet Voyage』(1977) クラウス・シェルツェ
『BBC 1.3.73-The Lurcher』ファウスト

ここに列挙したアーティストは、ある意味で「後進国ドイツ」であることの責任を引き受けようとするアーティストです。なので、ダサさを前面に出し、不協和音オンパレードとし、リズムを回避する、という具合に主流であることを避けようとしました。
カンのメンバー(ホルガー・シューカイを含む)はシュトックハウゼンの直接の教え子です。ファウストのメンバーは戦後ドイツを拒絶してコミューンを形成して廃校で暮らし、廃校でレコーディングしました。クラウス・シュルツェはユング心理学を専門的に研究してた大学院生で、同時代のロックは間違っているという意識を強く持っていました。
ちなみに、シュルツェがいう同時代のロック=英米ケツナメロック。(宮台)

ダースレイダー

1977年、フランスパリ生まれ。ロンドン育ち。東京大学中退。 ミュージシャン、ラッパー、MC。3ピースバンドベーソンズのボーカル。2010年に脳梗塞で倒れ、合併症で左目を失明する。著書に『ダースレイダー自伝 NO拘束』(ライスプレス)などがある。

*プレイリスト
『Meu Mundo E Uma Bola (Main Theme) “My World Is A Ball”- Version1』セルジオ・メンデス
『Little Pad』ザ・ビーチ・ボーイズ
『今夜はブギー・バック』小沢健二 feat. スチャダラパー


テキスト『君ニ問フ』編集部

※本記事は『深掘TV ver.2』「小山田圭吾問題を徹底深掘り!!」の書き起こしの一部に加筆/修正を加えて掲載しています。チャンネル登録でアーカイブ視聴可能です。