「何一つまともにできない人たちが、開会式のブッキングをしたこと自体が間違い」(ダースレイダー)

まず、お二人は小山田さんの辞任をどんなふうに受け止めていますか?

ダースレイダー(以下ダース)「この問題は前提となる五輪をどう捉えるかで変わると思うんです。五輪がただのテレビ番組で、ロケ地が日本っていう程度のもので、まったく取るに足らんっていう態度を取るなら、そんなイベントに誰がどう出ようが関係ないって話にもできる。
ところが五輪は税金が使われているから、僕もスポンサー、ステークホルダーだと考えると、人選としてはありえないという話です。ただ、それで言うと、インチキテレビ番組が〝平和〟だとか〝ダイバーシティ〟だとか〝文化〟だとか看板を出しているけど、それはただのテレビ番組のコンセプトに過ぎない、そのコンセプトが〝平和の祭典にふさわしくない!〟なんて話をしたところでしょせんテレビ番組ですから。でも税金を使っているのと、テレビ番組を作るにあたってのみなさんの体たらくがあまりにもひどすぎる。その一環としては当然のごとく起きた失敗であり、そして今はみんな責任逃れで、〝私は会ったことがない〟とか〝彼がどんな人か知らない〟とか言い出す始末。それが子どもたちへの教育効果としては十分役割を果たしていると思います(笑)」

大変シニカルな意見ですが、宮台さんはいかがですか?

宮台真司(以下宮台)「本音を言うと僕は加速主義※1的な立場なので、小山田氏が辞任せずに、開会式や閉会式を彼の曲で彩ってくれればなと思っていました。なぜなら、この東京オリンピックは、菅(義偉)総理が言うように、〝やれば成功なんだ〟どころではなくて、オリンピックをやることで、むしろ日本人の誇りが全面的に傷つくような事態にすでになりつつあり、僕はそれを歓迎するからです。オリンピック終了後も、コロナ政策のデタラメもあって日本人の誇りがますます傷つく方向に展開するでしょうが、真実に気づくという意味で、それも大歓迎。だから小山田氏があっさり辞めちゃって、僕は残念です。
しかし加速主義の立場を離れて、括弧付きの〈公共的な〉意見を言えば、これは法的責任の問題じゃなく道義的責任の問題です。法的責任の時効は、〝過去と比べて現在は事情が変更されているので、問わなくていい〟という話ですけど、道義的責任は〝法が許しても掟は許さない〟ということで、時効はありません。今回の件が25年前の出来事でも、人々が〝許せない〟と思うのは、イジメの内容だとされていることを踏まえれば、完全に自然です」

なるほど。

宮台「しかも、海外に発信され〝これは本当にひどい人選だ〟とツイートされまくっている状況ですから、オリンピックのダメージを少なくしようとする〈公共性〉から言えば、〝辞任させるのも、まあ仕方ないんじゃない?〟ということです」

そもそも論として、小山田氏はこのオファーを受けるべきではなかった?

ダース「そう思います。僕はオファーするほうもどうかしていると思ったし、引き受けたらどうなるかを小山田さんは当然考えるべきだったとは思います」

宮台「〝情弱〟つまり情報弱者問題ですね。問題となった雑誌のインタビュー記事はその界隈(かいわい)では有名なので、人選の責任に耐えるぐらい小山田氏を知っているなら、当然この問題も知っているべきです。たとえ電通界隈が選んだのだとしても、知らずに人選していたのであれば完全な頓馬なので、即死した方がいいでしょう(笑)」

ダース「僕は日本政府の五輪の進め方そのもの自体に、今起きているあらゆる問題の責任があると思います。この番組が始まる1時間前に〝五輪チケットの情報流出〟という速報が出ていました。五輪となると世界中のハッカーの対象になるのに、それ以前の問題として、ポータルサイトもアプリも何一つまともに作れないし、何一つできない人たちが開会式で誰かをブッキングしたり、何かしようとすること自体がもう間違っていますよね」

その資格すらないと?

ダース「ええ。そのレベルの人たちが小山田さんを引っ張り出してきた、という話です。特に組織委員会の人や政府関係者は身辺チェックもせず、どんな人だか知らずに開会式を任せようとした。やはり責任問題としては、この人たちだと思います」

ちなみに、小山田さんとは直接の知り合いではないあるミュージシャンから、いろんな話の流れのなかで「まあわかるんだけど、ミュージシャンに倫理観を求められすぎてもなぁ」という意見も出たのですが、これに対してはどう思いますか?

宮台「ミュージシャンとしてもつべき倫理の話ではなく、人間としてもつべき倫理、つまり人倫の話をしているので、頭の悪い異論です。僕が誰かの尊厳を著しく侵害するイジメをした過去があるとして、僕が問われるべき倫理は、社会学者としての倫理の話ではなく、人間としての倫理の話なのと同じです」

ダース「小山田さんの行動は、僕も読んだ瞬間に〝気持ち悪い〟と思ったし、当時も実はインクルーシブ教育※2に話題が及んでいて、それがうまくいっていないと言われているけど、日本ではそもそもインクルーシブ教育や社会をやろうともしていないし多くの場合やり方も間違っているから、成功も失敗もないっていう話もあるわけです。本当はそういった議論になるべきだとは思いますが、小山田さんがやったことに対して〝許せん〟っていうのは全くOKだと思うんです」

※1加速主義……政治・社会理論において、根本的な社会的変革を生み出すために現行の資本主義システムの矛盾を拡大すべきであるという考え。

※2インクルーシブ教育……子どもたちの多様性を尊重し、障がいのある子どもが精神的にも、身体的にも最大限まで発達できるよう、また、社会に他の子どもと変わらず参加できるように支援していく教育。

 

宮台真司 Photo by 関根渉

「どんな動機や経緯で、イジメをし、かつインタビューに応じたのか」
――80年代的〈越境の時代〉(宮台)

宮台「小山田氏が、1993年に起きた山形マット死事件※3の直後なのに、自分の障がい者に対するイジメを堂々と自慢げに語ったことそれ自体は、もちろん批判されるべきです。僕もふざけた野郎だと思います。でも、小山田氏がどんな動機や経緯で、イジメをし、かつインタビューに応じたのかを理解しないと、小山田氏を叩いても、何を叩いているのか意味が分からないままになります。どうせ叩くなら、それを理解して叩いたほうが、同じ悪を繰り返さないためにもベターです」

なぜ、どういう経緯での話だったのか。宮台さん、その時代背景の解説をお願いします。

宮台「一口でいうと、小山田氏のインタビューがあった90年代半ばは〈鬼畜系※4の時代〉でした。今の50歳代ぐらいの人はよくご存知でしょう。ただ、40代以下の方々はあの時代の雰囲気は分からないと思います。だから、少し説明します。
要点を言うと、90年代が〈鬼畜系の時代〉だった理由は、80年代が〈越境の時代〉だったということによります。80年代の〈越境の時代〉を支えていたある文脈が消えたことによって、越境の中身が、人がやらない鬼畜なことをやるという方向に、ねじまがっていく動きがあったんですね」

越境というのは?

宮台「トランスボーダー、つまり〝境界を超える〟ことです。分かりやすい例で言うと、80年代前半は〝ニュー風俗の時代〟で、大阪・阿倍野、その直後に新宿・歌舞伎町で、ノーパン喫茶、ノーパンしゃぶしゃぶ、覗き部屋、デートクラブ、ファッションマッサージなどが大爆発しました。そこで働いている人は、ほぼ全員が大学生女子と専門学校女子。つまり、〝ニュー風俗の時代=素人風俗の時代〟でした。これ自体が越境でしょう?」

プロの領域への越境ですね。

宮台「そう。さらに80年代後半は、テレクラ※5伝言ダイヤル※6、そしてダイヤルQ2※7に繋がっていく時代、つまり世界初の出会い系の時代です。〈テレクラの時代〉と呼んでいます。中学生から主婦までがどんどんセックスに乗り出した時代です。この80年代を通じて、高校生女子の性体験率は2倍近くに上昇しました。男の性体験率はほとんど変わらなかった結果、高校生女子の性体験率は高校生男子の率をはるかに超えてしまった。これも越境ですよね」

ええ。

宮台「あるいは、1986年にアイドルの岡田有希子が自殺しました。30歳以上離れた俳優さんに惚(ほ)れて、告白したところ断られて自殺したと言われています。ところで、それがきっかけで、それまでは年齢差があれば〝がちゃ切り〟だったテレクラの女性たちが、突然年齢差のある相手を求めるようになった。ここでも従来ありえない越境が起こったんです。これが実は90年代に入ってからの援助交際の助走になりました。
つまり、〝80年代的越境=性愛系な微熱感=女の営み〟でした。そうした80年代の雰囲気は、80年代のコマーシャルがよく表しているので、いくつか紹介します。『青春という名のラーメン』という商品のキャッチコピーは《純情に、オトナすぎるということはありません。誘惑に、幼すぎるということはありません。胸さわぎは、年齢を問いません。》。これは教師と生徒の恋愛をモチーフにしています。当時、僕が大好きだった森高千里のコマーシャルでも、《ディスコに行くと停学だったけど、そのスリルが快感だった》。つまり、規則を破れというメッセージが出ているんですよね。両方とも性愛的です」

なるほど。

宮台「戸川純の《ウフフ「どっくんどっくんの〝怒濤の恋愛〟したいわ」》、これも実は〝性愛は法を超える〟という基本的なモチーフを全面に出しています。注目したいのが、コマーシャルの女の子が酩酊状態のような表情をしていることです。
また、『妹は20歳。』というコピーの車のコマーシャルもありました。この妹役の女性はセミヌードで、ブラも水着もつけていない。〝妹〟〝20歳〟〝裸〟。これも完全に越境ですね。しかも、舞台は海。当時の微熱感、つまり海に行ったらみんな熱病状態になるということを表しています。
大瀧詠一『A LONG VACATION』のプロモーションにある《BREEZEが心の中を通り抜ける》というキャプションに着目してほしいのですが、海に行って生ぬるい風に当たるとトランス状態になることを表現しています。これが、僕が〝80年代な越境〟と呼んだもののあり方を示しています。
実は、80年代は日本だけではなくいろんな国で越境の時代で、その越境とは現実と夢を混ぜちゃおうという流れでもあったんです。80年代の前半、イギリスでは〝ネオ・ロマネスク〟と後に呼ばれるようになる幽玄な音、夢か現実かわからないような音っていうことで、デュラン・デュランやカジャグーグーなどがはやりました」

ダース「カルチャー・クラブとかもそうですね」

宮台「そう。当時の〝ネオ・ロマネスク〟を聴くと、その頃のパラダイス的な微熱感を思い出して、涙が出ます。あと、日本ではリゾート音楽って言われていたけど、〝キラキラ音楽ブーム〟だったんです。大瀧詠一の『A LONG VACATION』も山下達郎の『高気圧ガール』もそうだけれど、海に行くとみんなある種のトランス状態になって、すべてがキラキラ輝いて見える、というモチーフを前提としています。ひとまず〝80年代は越境の時代〟だというイメージはわかっていただけたと思います」

※3山形マット死事件……1993年に山形県新庄市の中学校で発生した男子中学生(当時13歳)の死亡事件。加害者として死亡した生徒をイジメていた当時14歳の上級生3人が逮捕され、同級生4人が補導された。学校現場におけるイジメの深刻さを明らかにし、少年法見直しの要因になった事件。

※4鬼畜系……悪趣味系サブカルチャーのサブジャンルで、1990年代の悪趣味ブームにおいて鬼畜ライターの村崎百郎によって作り上げられた造語。今日ではポリティカル・コレクトネス(Political Correctness)に反するとして批判的に言及されることが多い。なお、成人漫画などにおける反社会的行為、ないし残酷描写が含まれる作品、またその作家を指す言葉としても用いられている。

※5テレクラ……テレフォンクラブの略称。1985年の風俗営業法改正後に注目され、流行した業態で電話を介して女性との会話を斡旋(あっせん)する店。利用者の男性は店の個室で女性からの電話を待ち、相手の女性との交渉次第では、店の外でデートや性行為を行うことなども可能で売春の温床となった。

※6伝言ダイヤル……1986年、NTTが開始した6〜10桁のボックス番号+4桁の暗証番号を入力すると、伝言の録音・再生・追加録音ができるサービス。特定のボックス番号などが作られ、誰でもメッセージを録音・再生できるという使われ方をした。2016年2月29日にサービスは終了した。

※7ダイヤルQ2……「0990」で始まる番号に電話をかけることで、有料で各種番組(情報)を利用できるサービス。中でもダイヤルQ2のツーショットダイヤルは男女の出会いや交際を目的としたもので1990年代から若者の間で人気となった。テレクラが店から電話しなければならないのに対し、ダイヤルQ2は自宅から気軽に利用できることから人気が高まった。

ダースレイダー photo by 関根渉

「最終的にはマウンティング競争になった」
――90年代〈鬼畜系の時代〉(宮台)

宮台「ところが、80年代前半から後半になると、〝80年代的越境〟を支えていた微熱感が消えていきます。それを象徴したのが、先ほど申し上げた岡田有希子の自殺です。説明すると、〝80年代前半から後半への流れ〟は、〝『My Birthday』から『ムー』への流れ〟です。両方とも1979年に創刊されましたが、『My Birthday』は〝おまじない雑誌〟で、『ムー』は〝世界の七不思議雑誌〟です。『ムー』への流れは、どんなものだったのかを説明してみます。
1986年の岡田有希子の自殺後、中高生の女子が彼女の自殺をまねて投身自殺するケースが相次ぎ、この年の中高生女子の自殺者は統計上の特異点になりました。『ムー』の読者お便り欄で自分の前世の名前を語り、名前に覚えがある者を募って、会った後に揃って投身自殺しました。ナンパ師だったので若い子たちに岡田有希子をどう思うか尋ねまくりましたが、共感している子ばかりでした。自殺にというより、年齢が遙(はる)かに離れた男に向かわざるを得なかった性の不毛感に共感していたんです。
80年代前半の『My Birthday』の時代は〝性に乗り出せない悩み〟の時代でした。ハイティーンが大挙参入した〝ニュー風俗ブーム〟もあった。70年代後半から〝ナンパ/コンパ/紹介の時代〟が始まり、雑誌『POPEYE』やそれをパクったテレビが、デートマニュアルやそれに結びついたタウンマップを特集し続け、デート相手がいないと渋谷を歩くのも気が引けた。CMが性の匂いに満ちていたことは話したとおり。ミドルティーン以下が煽(あお)られて〝性に乗り出せない悩み〟が浮上します。そうした子たちが〝想い人の名前を腕に書いて絆創膏を貼ると叶う〟みたいなおまじないを実践しました。
ところが、80年代後半になると打って変わって〝性に乗り出したがゆえの悩み〟が表に出てきます。わかりやすく言うと、性に乗り出してはみたけれど、思っていたものと違ったことに打ちのめされたんです。僕が〝こんなはずじゃなかった感〟と呼ぶような期待はずれが、急速に上昇しました。それが、〝性に乗り出せない悩み〟から〝性に乗り出したがゆえの悩み〟へのシフトの中身です」

なるほど。

宮台「80年代半ばからは性に自由に乗り出せるようになったけれども、男のホスピタリティがめちゃめちゃ低かったんです。〝駅前で待ち合わせて、マクドナルドでテイクアウトし、ラブホでエッチして、はいバイバイ〟みたいなデートしかできないヤツだらけ。これに比べると、70年代末からのデートカルチャー初期は、僕が大学生だった頃ですが、ドライブコースを計画して、オシャレスポットを下見し、どの時間帯にどこを通るか考えながら特製カセットテープを作り、カーオーディオで計画どおりに音楽をかけました。当時の男にとって、デートは芝居や映画のような演出だったんです。
つまり、デートカルチャー初期はまだ性愛のハードルが高く、女の子にイエスと言わせるためにエンターテインしたわけです。ところが、7~8年後の80年代半ばには、誰もがすぐセックスできる状態になって、デートもセックスも粗雑ものになりました。これは、言うまでもなく感情的劣化です」

ただ「ヤルだけ」みたいなことですね。

宮台「そう。それで女の子たちが期待はずれに打ちひしがれた。彼女たちが願望する微熱感からかけ離れたものへと性愛が堕ちていく。そのことの自殺と並ぶもうひとつの象徴が、86年に始まる素人女子大生AVブーム/黒木香ブームでした。『全裸監督』(シーズン1・2)がNetflixで流れていますが、ブームの背後にあったのもセックスについての〝こんなはずじゃなかった感〟です。ナンパ師としてAVの子たちの相手もしていたので、僕にとってもすごく思い出深い。
同じ頃、林真理子らが音頭を取った〝『an・an』読者ヌードブーム〟も立ち上がりましたが、これも同じ方向です。ディスコのジュリアナ東京から始まった〝お立ち台ブーム=扇子踊りブーム〟も同じでした。素人AVブーム、読者ヌードブーム、お立ち台ブームは全て、性愛が男と無関係な〝自己関与的な性〟、つまり自意識的なものに変わった事実を示しています。つまり、80年代後半の〝微熱感の喪失〟と〝性の期待はずれ〟と〝性の自己関与化〟は、完全にひと繋がりなんですね」

開かれたものから内在的なものになっていったと?

宮台「そう。どんどん閉ざされていった。なので、当時〝ずさんなデート〟と〝ずさんなセックス〟を経験した女の子たちの多くが、『金をもらわないとやってられないよね』って言っていたのを覚えています。それが92年の夏休みから一部で始まって96年夏休みにピークを迎えた〝援助交際ブーム〟に繋がりました。93年秋に朝日新聞でこれらの存在を紹介した僕が、彼女たちを擁護したのは、当時つきあっていた援交を打ち明けてきた女子高生を擁護するためでしたが、彼女も〝こんなはずじゃなかった感〟に打ちひしがれていました。
学問的に言うと、若い女にとって、70年代の末から80年代前半にかけては〝期待水準〟と〝願望水準〟が一致していた。〝期待水準〟は〝実際に何が期待できるか〟。願望水準は〝本当のところ何がしたいのか〟。最初はそれが一致していたのが、80年代半ば以降、テレクラにかければ1時間後にセックスできるようになって性交経験を持つ子が激増すると、〝願望水準〟と〝期待水準〟が乖離(かいり)していく。それが先ほど言ったデートとセックスの〝こんなはずじゃなかった感〟です。かくして〝期待水準〟の低下に引きずられて〝願望水準〟も下がりました。それが80年代後半から90年代にかけて起こった。となると、90年代に鬼畜系が出てきた理由が、ある程度想像できるでしょう」

そうですね。

宮台「かつてならマドンナ視されたカワイイ子も、〝きっとパパがいるんだろうな〟というふうになって、若い男子が性愛から著しく疎外されました。かくして、〈80年代的越境〉が〈90年代的越境〉にシフトします。〝80年代的越境=性愛系微熱感=女の営み〟だったのが、〝90年代的越境=鬼畜系マウンティング=男の営み〟になりました。越境=境界を超えることは同じでも、当初は街の微熱感だったものが、次第に自意識に閉ざされた挙げ句、最終的にはマウンティング競争になったわけですね。
性愛系微熱感が女的で、鬼畜系マウンティングが男的だというのは、営みに参加した人たちの性別的な非対称性によります。でもそれぞれ男女双方に関わります。例えば90年代半ばに繰り返し書いたように、90年代に入ると出会い系界隈が急速に劣化し、女がカネを要求するようになり、男はカネを払ったぶん好きなようにさせてもらうぜというふうになりました。かくして出会い系界隈が劣化して援助交際ブームに繋がります。〝感覚の開かれ〟から〝感覚の閉ざされ〟への劣化です。だから援助交際を最初に世に公開して女子高生を擁護した僕も、鬼畜系だと思われて、とても心外でした(笑)」

(笑)。つまり、80年代の前半から半ばにかけての微熱感の後遺症として鬼畜系が出てきた。結局、小山田さんはその後遺症の時代の中で、ああいう発言を喜々としてしまったということですか?

宮台「それはダースさんに補足してもらえると思います」

 

Photo by 関根渉

「〝お前、どこまでできるんだよ〟って試され続ける感覚」(ダース)

ダース「これまでの宮台さんの話では、80年代はふわふわした、明るい楽しげな女性的である〝越境感〟があり、それに対して90年代は、80年代的なものの否定という感覚になったということでしたが、この否定になったもとって〝嫉妬〟だと思うんです。〝ふざけんな〟っていう男性的な反応です。80年代に女の子たちが楽しそうにしているのを、10年遅れて自分たちもやろうと思ったらやり方すらわからず、それと似たようなことをやろうとした。
それが〝俺のほうがすごいことできるんだよ〟〝もっとヤバいことをやれるんだよ〟っていう方向へいってしまった。だから、僕は鬼畜系のブームって男性的な世界観のマウント取り合戦という側面があると思います。どこまでそれができるかがリスペクトを勝ち取るための手段になっていったわけです。そういうことをやれるヤツがモテるとか、そういうことをやれるヤツが仲間にすげぇって言われる、みたいな価値観が非常に作られやすかったんですね」

なるほど。

ダース「実際にはどこまでできるのかというと、大概の人はビビってできない。ですが、何かしら人前に出る人は、ある種のプレッシャーとして〝お前、どこまでできるんだよ〟って試され続ける感覚の中で、小山田さん的な、特にフリッパーズ・ギターみたいな非常におしゃれで明るくて、渋谷系※8っていう文化の出自自体も女の子が周りにいるような環境にいることに対して、鬼畜系の人たちのメンタル、〝ふざけんな、そうじゃねえんだよ〟っていう同調圧力が働いたのではないでしょうか。『ロッキング・オン・ジャパン』の記事の冒頭部分も、おしゃれ的なものに対してのアンチテーゼ的なものを強く打ち出しています。そういったプレッシャーもあり、ある種不毛な鬼畜争いをしていたなかに、小山田さんのメンタルはどの程度意図的かは不明ですが、すっぽりハマってしまったんだろうというのが、今の宮台さんの話の流れだと思います。
僕も実際に、鬼畜系に関しては、特に雑誌とかを読んでいるだけの時は〝それをしなきゃいけないのか!〟っていう思い込みをしていたんですが、僕は運よく世代が少し下だったこともあって、ヒップホップのクラブに遊びに行ったら、そうじゃない仲間と会って鬼畜系のマウントではない、アンダーグラウンドという中でもヒップホップとかハウスとかテクノとかへの広がりが、鬼畜系の方向に突っ走らなくてもいいっていう補助線を僕に与えてくれて、ギリギリハマらずにすんだのかなと思います」

なるほど。

ダース「だから今、小山田問題で、90年代サブカルブームに対する自己反省的なことを言わなければいけないと考えている人が多いのも、宮台さんが説明した背景にある種ハマってしまっていたことに気づいた人がたくさんいて、〝あれは何だったのか、考えないとまずいかな〟っていうムードになっているんだと思いますね」

(後編へ続く)

※8渋谷系……東京都の渋谷(渋谷区宇田川町界隈)を発信地として1990年代に流行した日本のポピュラー音楽(J-POP)のジャンル、ムーブメント。

 

『深掘 TV ver.2』レギュラー陣がゲストとともに、毎回ワンテーマを深掘りするトーク番組。ニコニコ生放送で毎月2回配信中。

 

宮台真司

1959年、仙台市生まれ。東京都立大学教授。専門は社会学。映画批評家の顔も持つ。90年代、援助交際やオウム真理教事件に関する論考で注目を集め、以降さまざまなメディアを通じて、政治や社会に対する批評を続ける。『14歳からの社会学』(ちくま文庫)、『日本の難点』(幻冬舎新書)など著書多数。近著に『崩壊を加速させよ 「社会」が沈んで「世界」が浮上する』(blueprint)。

*プレイリスト
『Camera! Camera! Camera!』(1990) FLIPPER’S GUITAR
『Young, Alive, In Love – 恋とマシンガン』(1990) FLIPPER’S GUITAR
『PERFECT RAINBOW』(1994) Cornelius

ダースレイダー

1977年、フランスパリ生まれ。ロンドン育ち。東京大学中退。 ミュージシャン、ラッパー、MC。3ピースバンドベーソンズのボーカル。2010年に脳梗塞で倒れ、合併症で左目を失明する。著書に『ダースレイダー自伝 NO拘束』(ライスプレス)などがある。

*プレイリスト
『Shout To The Top』The Style Council
『Don’t Take Your Time』Roger Nichols & The Small Circle Of Friend
『Casino Royal』Herp Alpert & Tijuana Brass


テキスト『君ニ問フ』編集部

※本記事は『深掘TV ver.2』「小山田圭吾問題を徹底深掘り!!」の書き起こしの一部に加筆/修正を加えて掲載しています。チャンネル登録でアーカイブ視聴可能です。